二次元文化論 前編 二次元表現は、形而上の人間像を立ち上げる――高虚構性と、「このキャラかわいいやろ」という創作上の賭けについて

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[前編 二次元表現とは何をしているのか]
[中編 二次元キャラクターを愛するとはどういうことか]
[後編 二次元愛ではないものが、二次元の顔をしている]

前編 二次元表現とは何をしているのか

「総称二次元」と、本稿でいう「二次元」

まず、「二次元」という言葉を整理しておきたい。

現在、「二次元」という言葉はかなり広く使われている。

漫画。
アニメ。
ゲーム。
キャラクター絵。
平面に描かれたフィクション世界。

それらをまとめて「二次元」と呼ぶことがある。

この用法は便利である。

実写ではない。
現実の人物ではない。
漫画・アニメ・ゲームなどの平面媒体に属している。

そうした作品やキャラクター群をまとめるために、「二次元」という言葉は使いやすい。

本稿では、この後発的で便利な総称としての用法を、便宜上「総称二次元」と呼ぶ。

だが、本稿で本当に問題にしたいのは、この総称二次元ではない。

「二次元」という言葉には、もっと濃い感覚がある。

それは、自分との次元差を意識する言葉である。

私たちは三次元の現実に生きている。
一方で、二次元のキャラクターは、こちらの世界にはいない。

触れられない。
同じ世界に住めない。
どれだけ望んでも、そこへ到達することはできない。

この隔たりを、単なる距離ではなく「次元が違う」と感じる。

日常でも、「次元が違う」という言い方をする。
それは、少し差があるという意味ではない。

同じ土俵で比べられない。
属している場所が違う。
届き方が違う。
そもそもこちらの手が届く対象ではない。

二次元という言葉にも、それに近い感覚がある。

あれは単に、絵が平面だから二次元なのではない。

三次元にいる自分とは違う次元にある対象を、それでも愛してしまう。
その次元差の意識が、「二次元」という言葉には含まれている。

この感覚は、古い用例からも確認できる。

たとえば『漫画ブリッコ』1983年8月号には、「ぼくは二次元コンプレックスです」と名乗り、実写ヌード写真には特に何も感じないため漫画のみにしてほしい、という趣旨の読者投稿があったとされる。
ここでの「二次元」は、単なる平面媒体の分類ではない。
実写の身体とは異なる対象へ向かう感覚として使われている。

その後、「二次元」は漫画・アニメ・ゲームなどをまとめる便利な総称として広がっていった。

だが本稿では、総称二次元ではなく、自分との次元差を意識する言葉としての「二次元」を扱う。

二次元とは、外形的な媒体分類ではない。

三次元に生きる自分とは違う次元にある対象を、それでも愛してしまうという感覚を含んだ言葉である。

この前提から、二次元表現を考えたい。

高虚構性とは何か

総称二次元としての漫画・アニメ・ゲームなどを広く見た場合、そこには一つの強みがある。

それが、高虚構性である。

高虚構性とは、現実にはそのまま存在しない構成を、作品内では強い説得力を持つものとして成立させる力である。

これは、単に「現実離れしている」という意味ではない。

現実にはありえないものを出すだけなら、ただの荒唐無稽である。

空を飛ぶ。
巨大ロボットが動く。
肉体が誇張される。
魔法が使える。
髪が青い。
目が大きい。

それだけなら、まだ高虚構性とは言えない。

重要なのは、現実にはそのまま存在しない構成が、作品内では「そういうもの」として受け取られることである。

読者や視聴者が、これは嘘だから駄目だ、とは思わない。
むしろ、その作品の中では自然であり、強く、説得力のあるものとして受け取る。

ここに高虚構性がある。

二次元表現は、線、色、構図、声、台詞、誇張、省略、反復、様式化によって、現実の制約から距離を取ることができる。
そして、現実にはそのまま存在しないものを、作品内で強く成立させることができる。

だから高虚構性は、キャラクターだけの話ではない。

アクションにも高虚構性はある。
世界設定にもある。
身体の誇張にもある。
暴力の様式美にもある。
ギャグのテンポにもある。
都市の記号化にもある。
メカにも、魔法にも、変身にも、関係性にもある。

たとえば、『北斗の拳』や『シティーハンター』のような劇画調の作品を考えてもよい。

それらは、ここで後に論じる「形而上の人間像を立ち上げる」という方向だけに高虚構性を集中させているわけではない。

『北斗の拳』であれば、荒廃した世界、秘孔、肉体の誇張、暴力の様式美。
『シティーハンター』であれば、都市、銃、ハードボイルド、ギャグと色気とアクションの振れ幅。

そこにも明らかに高虚構性がある。

だから、問題は「高虚構性があるかないか」ではない。
高虚構性をどこに置いているかである。

総称二次元としての漫画・アニメ・ゲームは、現実の制約から距離を取り、現実にはそのまま存在しない構成を成立させる力を持っている。

その力がアクションに向かうこともある。
世界に向かうこともある。
肉体の誇張に向かうこともある。
様式美に向かうこともある。

そして、キャラクターへ向かうこともある。

本稿で問題にしたいのは、この最後の方向である。

すなわち、高虚構性が、キャラクターを人間として立ち上げる方向へ向かったとき、二次元表現は何をしているのか。

ここから、本稿でいう「二次元」の問題に入っていく。

二次元表現は、現実の人間に漸近しない

二次元表現は、現実の人間に近づくための表現ではない。

より写実的に描く。
身体の陰影を増やす。
筋肉や骨格を現実に近づける。
生活感を増やす。
現実の街並みや質感を再現する。
実写映画のような画面を作る。

そういう方向の表現はある。

それ自体が悪いわけではない。
むしろ、その方向にも強い表現は多くある。

だが、二次元という言葉が本来持っている次元差の感覚から見れば、現実の人間へ漸近することは、二次元表現の中核ではない。

二次元表現が本当に強いのは、現実の人間を丸ごと再現するときではない。
現実の人間の情報量を、できるだけ多く写し取るときでもない。

二次元表現の強さは、現実の人間に近づくことではなく、現実とは次元の違う場所に、形而上の人間像を立ち上げるところにある。

形而上の人間像とは何か

ここでいう「形而上の人間像」とは何か。

形而上の人間像とは、理性と直感の重なる領域にある、「人間として最も強く受け取られるはずだ」という像である。

これは、現実から逃げた薄い記号ではない。
創作者個人の内側に閉じた妄想でもない。
単なる好みの投影でもない。
抽象的な理想像でもない。

もっと具体的である。

声がある。
顔がある。
目線がある。
言葉がある。
沈黙がある。
距離感がある。
他者との関係がある。
世界の中での立ち位置がある。
言いそうな台詞がある。
言わなそうな言葉がある。

しかし、それは現実の誰かをそのまま写したものではない。

わかりやすく言えば、「世界で一番かわいい女の子とは何か」を目指すような営みである。

ただし、これは「かわいい」に限らない。

かっこいいでもよい。
美しいでもよい。
凛々しいでもよい。
儚いでもよい。
信じられるでもよい。
守りたいでもよい。
見ていたいでもよい。

また、ここで言う「世界で一番」は、現実の人間をランキングするという意味ではない。

この世界に本当に唯一の最上位像が存在するかどうかを、ここで証明したいわけでもない。

重要なのは、二次元表現が、そうした普遍的な引力を持つ人間像を目指しているということである。

創作者は、単に「自分だけが好きなもの」を出しているのではない。
自分の理性と直感を通して、「これは人間として強く受け取られるはずだ」という像を形にしようとしている。

もちろん、そこには個人差がある。
時代差もある。
作家性もある。
ジャンルもある。
性別も、年齢も、文化も関わる。

それでも、二次元キャラクターがこれほど類型化し、繰り返し似た構成へ収束していくのは、そこに何らかの普遍的な引力があるからだと考えられる。

ツンデレ。
無口。
お姉さん。
妹。
幼なじみ。
クール。
ボーイッシュ。
母性的なキャラクター。
守りたくなるキャラクター。
背中を預けたくなるキャラクター。

こうした類型は、単なる記号の反復ではない。

人間の感情構造、関係性への欲望、認知の仕方、生物学的反応、物語上の期待に触れるものがあるから、繰り返し現れる。

本稿では、その生物学的・心理学的な説明へは踏み込まない。

ただ、少なくとも言えるのは、二次元表現が、単なる個人的趣味ではなく、人間として強く受け取られる像を目指す営みだということである。

これを、本稿では形而上の人間像と呼ぶ。

この形而上の人間像は、そのままでは作品にならない。

それは、絵、声、台詞、沈黙、距離感、関係性、物語上の立ち位置といった形而下の要素によって、初めて受け手に届く。

何があれば、その人間像は立ち上がるのか。
何を置けば、この子をこの子として受け取らせることができるのか。

それを見極めることが、二次元表現の技術である。

現実の人間に近づけるために情報量を増やすのではない。
また、記号として薄くするために情報量を減らすのでもない。

形而上の人間像を形而下へ下ろすために、必要なものを選び抜く。

ここで重要なのは、二次元表現が受け手の想像力にすべてを丸投げしているわけではないということだ。

形而上の人間像は、絵、声、台詞、沈黙、関係性、距離感として、作品側にかなりのところまで下ろされている。
だから受け手は、膨大な補完能力を持っていなくても、「この子」を受け取ることができる。

入口は広い。
しかし、浅いわけではない。

受け手の想像力が大きければ、さらに深く読める。
構造を掘れる。
言葉にできる。
別の角度から味わえる。

だが、その前にまず、作品の側に「この子」が立ち上がっている。

ここにも、二次元表現の強さがある。

創作者は「このキャラかわいいやろ」と提案する

二次元キャラクターは、自然発生するものではない。

創作者が、作品の中に置く。

このキャラかわいいやろ。
この子、よくないか。
この関係性、信じられるやろ。
この距離感、刺さらないか。
この沈黙、分かるやろ。
この子がこの世界にいることを見てほしい。

そういう提案として、キャラクターは置かれる。

ただし、この「かわいいやろ」は、単なる個人的趣味の提示ではない。

「私はこういう髪型が好きです」
「私はこういう声が好きです」
「私はこういう属性が好きです」

もちろん、そういう好みは出発点としてある。
だが、それだけなら創作にはならない。

創作者の「このキャラかわいいやろ」は、もっと重い。

それは、形而上の人間像を形而下へ下ろす試みである。

かわいい。
かっこいい。
美しい。
信じられる。
守りたい。
放っておけない。
一緒にいたい。
見ていたい。

そうした感覚は、単なる属性の足し算ではない。

理性と直感の重なる領域にある、人間として最も強く受け取られる像である。

創作者は、その像を、絵、声、台詞、沈黙、距離感、関係性、物語上の立ち位置によって形而下へ下ろす。

そして受け手に向けて、「これかわいいやろ」と差し出す。

それは、「私の好みを見ろ」ではない。

この人間像は立っているだろう。
この子はかわいいだろう。
この子は信じられるだろう。
この構成なら、あなたにも届くだろう。

そういう創作上の賭けである。

だから、二次元キャラクターは単なる属性の束ではない。

ツンデレだからよいのではない。
無口だからよいのではない。
お姉さんだからよいのではない。
妹だからよいのではない。

その属性が、どのようにその子の人間像を立ち上げているかが重要なのである。

同じ無口でも、同じツンデレでも、同じお姉さんでも、同じ妹でも、同じ人間にはならない。

その子がその子として立つための形が違うからである。

前編の結論――二次元表現の本質的価値

前編で確認したかったのは、二次元表現の本質的価値である。

二次元表現は、現実の人間を再現するものではない。
三次元の現実にいる人間へ漸近するものでもない。

総称二次元として見れば、漫画・アニメ・ゲームなどの表現には、高虚構性というメディア特性がある。

それは、現実にはそのまま存在しない構成を、作品内で強い説得力を持つものとして成立させる力である。

その高虚構性は、アクションにも、世界にも、様式美にも向かう。

そして、キャラクターへ向かうこともある。

高虚構性がキャラクターへ向かうとき、二次元表現は、現実の人間を写すのではなく、形而上の人間像を形而下へ下ろす営みになる。

形而上の人間像とは、理性と直感の重なる領域にある、人間として最も強く受け取られるはずだという像である。

創作者は、その像を作品の中に置く。
そして、「このキャラかわいいやろ」と差し出す。

それは単なる趣味の提示ではない。
形而上の人間像を、形而下の表現として成立させる創作上の賭けである。

その営みが二次元表現の本質的価値だといえる。

次に問題になるのは、そのように立ち上がったキャラクターを、受け手がどう受け取るかである。

二次元キャラクターは、三次元の現実にはいない。
自分とは次元が違う。

しかし、受け手はそれを「この子」として、人間として受け取ってしまう。

ここから、二次元キャラクターを愛するとはどういうことか、という中編の問題が始まる。

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